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17 octobre 小説第2弾ようやく、恥の上塗り小説の不定期掲載の第2弾です。昨年の4月29日号の続きです。とても遅くなり、すいませぬ。事実とフィクションが混ざっていますがかなり事実に近いです。カテゴリーに小説という項目を設けましたので、以後、こちらからもアクセスできると思います。 夜半、微熱の頃を過ぎても 連載第2回 ◆第2章 バリケード封鎖への誘い
1969年とは、アメリカのウッド・ストックで40万人を集めた伝説のロック・フェスティバルが開催され、ロック音楽史上最も輝かしい年の一つであるとともに、日本では1960年に続き、10年毎に日本とアメリカの軍事同盟である日米安全保障条約が更新される1970年が近づいてとても騒然とした年であった。 1970年からさらに10年間の条約延長しようとする日本政府とアメリカ政府の動きに対して、1969年は、左翼勢力を中心に、遂には過激派とよばれる集団が先鋭化、武装化し、条約締結を絶対に阻止するという壮絶な争いを政府に向け仕掛け続けていた。当時のアメリカは共産主義勢力からベトナムの民主主義を守るという名目のもとにベトナムに派兵し戦争を継続していた。 世相は、70年安保条約破棄とベトナム反戦を大きなテーマとしながら、硬直した日本の政治・社会システムそのものへの造反も様々な場所で繰り広げられていた。この政治の季節、その戦いを担っていたのは、労働者よりも大半が大学生であり、大きな政治テーマを掲げながら、各大学では学費値上げ反対や大学自治についての自主管理を求めて校舎は次々と政治色の強い学生達に占拠、バリケード封鎖され、大学機能が麻痺する事態へと発展していた。そして、それは遂には都立高校にも波及することになる。
ロック音楽と反体制の政治活動、それぞれが絶頂を迎えていた1969年に高校3年生であるということは、幸せだったか、不幸せだったか、今となっては判別するのは難しいかもしれない。そんな時代の頂で18歳のHの同級生たちは、大学受験に没頭する者、政治活動に目覚めて外部の政治集会に加わる者、未練たらしくスポーツの部活を続ける者、ひたすらロック音楽を聴いている者、悩みながらもどれにも加われず傍観している者、それぞれはバラバラに存在しながら時代が変わる節目にたどり着いていた。 1969年、人間性を回復しようという史上最大規模のロック・フェスであるウッド・ストックの開催と日本の政治状況を変革しようという動きはまったく違うようで根っこではつながり、世界の到る所で、ロック音楽は新しい時代の音楽として熱狂的に支持され、そして政治体制に対する不満は、大きな変革の渦巻きとなって吹き荒れていた。 バスケット・ボール少年のHは、高校受験の時のように、ひたすら受験勉強をする意味、そして有名大学を目指す事の意味が薄れはじめていた。良い高校へ入学し、良い大学へ進学し、良い大企業へ就職して、安定した収入を得るという高度成長期の日本での成功物語の価値がわからなくなってきていた。当時の世界はほぼ社会主義国陣営と自由主義国陣営に分かれ、その勢力の優劣はまだ決着がついておらず、両陣営の代理戦争の場となったベトナムでは毎日、ベトナム民間人、ベトナム人民兵(通称ベトコン)そしてアメリカ兵がたくさん死んでいった。アメリカには、ロック音楽と民主主義・資本主義・自由主義そして帝国主義が同居し、H達にとってアメリカは憧れといやな部分が同居する存在だった。 Dは辺りを見回して、誰も居ないことを確かめるとボソッとつぶやいた。 Hはまだ決めかねていたが、多分、参加することになるだろうと思っていた。この計画の中核メンバーが主張する、生徒会・文化祭の自主運営、服装の自由化要求、高校生の政治活動禁止反対などについては共感するものの、どうでも良かった。激動している世界、そして日本を尻目に、硬直した現状をそのまま肯定して、何事も無いように大学受験を強要する高校教育、教師にうんざりしていた。そうだ、今は立ち止まる時だという思いが心を占めた。立ち上がるのではなく、立ち止まるのだと。一度、硬直した日本の受験高校としてのK高校のあり方を止めてみたかった。 「参加するよ」 29 avril 小説遂に!遂に、恥の上塗り小説の連載を不定期で開始します。事実とフィクションが混ざっています。当時のお宝情報の取材で、4月25日に高校時代の仲間4人で会合を持ちました。そのほかにも重大な発表があるのですが、それは解禁されてからという事にします。カテゴリーに小説という項目を設けましたので、以後、こちらからもアクセスできると思います。
夜半、微熱の頃を過ぎても 連載1回目
◆序章
あの頃の自分達は微熱を感じながら日々を暮らしていたと思う。その熱は反体制としての政治や音楽が次々と台頭して作り出す騒然とした時代の地熱だったのか、青春期がもたらした自分自身の発熱だったのか、区別が難しい。そして時に、その熱は微熱から高熱へと上昇して自分達を困らせていた。熱に耐えるにはまだ十分な体力や知恵もないままに。
◆第1章風のグランド
当時、有名国公立大学への進学は、都立高校に限定すれば日比谷、西、戸山、上野高校などが上位を占め、これらの高校に入いれば大学受験に大変有利とされ、有名都立高校への受験は受験戦争と呼ばれる状態に突入していた。この状況を緩和すべく、都の教育委員会、そして都知事は改革に乗り出し、1967年に学校群制度を導入した。
それは、都立高校の学区ごとに、2つ又は3つの学校をグループとしたグループ受験に切り替えるものだった。人気のある進学校を分散させ、人気校より学力的には多少落ちる高校の組み合わせを作り、そのグループごとに高校受験する内容となった。例えば、第1学区だった大田区、品川区、千代田区、港区にある都立高校の組み合わせの一つとして、都立K高校と、都立D高校が組み合わされ、第14群と呼ばれる学校群となった。つまり、14群を受験して合格すると、どちらの高校へ行くかは選択できず、合格した受験生にとっては運に作用される都立高校の受験制度だった。
この制度が導入されしばらくすると、希望しない都立高校に割り振られる事を心配した受験生は、合格した都立高校の結果によって、同時に受験していた私立の有名高校に進学するという事が頻繁に起こるようになっていた。そして、この制度が続くことで名門と呼ばれていた都立高校の学力は低下しはじめて、それ以後、長期的な低迷期に入ることになる。
その学校群制度が発足して、第1回目の受験で入学したH達は、最上級の3年生となっていた。このK高校は、東工大への進学では全国のトップクラスとして名前が知られており、K高校目当で入学した理数系志望のクラス・メイトもいれば、ちょっと背伸びしてきてしまったクラス・メイトもいた。Hは特に希望して入学したのではなく、どちらかといえば後者だった。
Hは中学ではずっとバスケットボール部に所属し、大田区の大会では何回も優勝し、それなりに自信があったので、入学したK高校でもバスケットボールのクラブに入ることになった。この高校では、クラブ活動を班活動という名称にしているため、バスケットボール班と呼ばれていた。ここでもスタメンとして試合に出てはいたが、さすがに高校になると私立のクラブ活動のレベルは高く、都の大会などでは良い成績を残すことができなかった。すでに3年生の2学期も過ぎ、班の活動は2年生に移っていた。Hはバスケットボールへの興味が薄れはじめ、そして大学受験を意識しなければならない時期だったが、発想が自由で、手を使うより不自由な足を使いながら、スピード感のあるサッカーというスポーツに魅力を感じ始めていた。
その朝、Hはいつものように都立K高校のグランドでサッカーボールを蹴っていた。メキシコ・オリンピックでの釜本選手の活躍などで、サッカーは人気のスポーツとして徐々に高校生にも浸透し、体育の授業でサッカーの面白さを知ったことで、自主的にクラス対抗のリーグ戦が立ち上げられ、授業の始まる前の水曜日の朝には、30分ハーフの試合が組まれるようになっていた。
東急という私鉄の駅前にあるこの高校は、灰色をした古い校舎があり、その前にある土のグランドは風がある日はその通り道となり、いつも砂埃を舞い上げていた。その日も風が強かったが、いつものようにクラス対抗のサッカーの試合が始まった。Hはバスケットボール班に所属しているということで、大抵ゴール・キーパーを任されていた。冬の校庭、しかも砂埃舞う校庭に立ち、その日もキーパーとしてゴール前でポジションをとり、当たり損ねのシュートを何本かキャッチしていたが、自分のクラスである3年F組の攻勢が続く時間が多くなり始めていた。キーパーをしている時間がとても辛く感じられて、ハーフの30分が終わると、交代してくれる相手を探した。何人か声を掛けて、やっと交代してくれる同級生を見つけた。
F組にはサッカー班所属の生徒が2名いて、彼らを中心にしてゲームを組み立てる事が多かったが、後半が始まり、左サイドのポジションにいきなりチャンスがやってきた。味方が自陣ゴール付近で相手ボールを奪い、サッカー班のT坂にボールを預けると、彼は右へ行くと見せかけた素早いフェイントで目の前の相手を2,3人抜き去り、右サイドから中央付近にドリブルで上がってきた。そして左サイドからゴール前近くにポジションをとったHを見つけると、T坂はHの胸に向かって正確なクロスボールを送った。そのボールはHの胸でうまくトラップされることでコントロールされたボールとなり、Hの足元へ落ちてきた。地面に落ちる瞬間に右足のボレーでそのボールを振りぬくと、見事な軌跡を描いて、前目にポジションをとったキーパーの頭上を越えてゴール・マウスに吸い込まれた。0-0で始まった後半、Hにとってサツカーの試合で生まれて初めて得点する貴重なゴールとなった。結局、この1点が決勝点となり、クラス対抗の試合は、F組が勝利して終了した。
バスケット・ボールの公式試合では通算何百ものポイントを上げていたHにとって、このクラス対抗で入れた草サッカーでの1得点は、その後、何十年たっても忘れることの出来ないゴールとなった。得点を上げた瞬間、頭の中は真っ白になり、アドレナリンの快感が体をしばらく支配していた。
試合後、運動班の連中からは、風のグランドと呼ばれていた校庭の隅にじっとしている事で、この余韻を楽しんでいたが、これから始まる様々な厄介ごとにも思いをめぐらしていた。そして興奮が冷めたところで、F組の教室へ戻り着替えを始めると、隣に着替えを終えていた体操部のDがやってきて話かけた。それは1969年の冬のことだった。
旅立てと 風のグランド 冬日差し
【続く】
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